愛と関係性についての言葉

人は関わりたいと思っても、心のどこかにそれを避けたいという自分がいる

人は関わりたいと思っても、心のどこかにそれを避けたいという自分がいる。そして、それには理由がある。


 

一つは、あなたが関わりを持ちたいと思うのは、一人でいるのが寂しいからだ。つまり、あなたにはそうするだけの必要性と欲望がある。しかし、どんな関係にも、問題、難題、課題、苦しみ、葛藤がつきまとう。ゆえに、もう一方の心がこう言う、「なぜわざわざ事を荒立てるのか」と。そして、そのどちらも正しい。

 

一人でいる時、あなたは孤独で、惨めだ。一人でいる時、あなたは人生の意味について考える。というのも、詩が湧き起こるのは、あなたが人と一緒にいる時だけだからだ。人を愛する時、初めて人生は意味を帯びる。愛のない人生は無意味に思える。なぜ生き続けるのか? いったい何のために? 誰のために?

一方では心がこう語る、「誰かを愛しなさい。愛されなさい。エネルギーを分かち合い、喜び祝いなさい」と。

そして、もう一つの心はこうささやく、「気を付けなさい。どんな関係も、最後には問題になるのだから」と。一人でいれば、何も問題はない。た だ、あなたが問題なくらいだ。それ以外に問題はない。だが、相手を通してたくさんの問題がやってくる。そして二人が一緒になれば問題は倍増する。

それゆえに、一方の心がこう言い続ける。「気を付けなさい。わざわざ、面倒を起こさないことだ。一人でいれば、少なくともお前は平穏でいられる。たとえ幸せでなかったとしても、平穏は確保される。人と交わったところで、幸せになれるかどうかはわからない。 一つだけ確かなことは、平穏が乱されるということだけだ!」


 

だから葛藤がある。それはすべてのひとの中にある。誰もが愛したいと思い。その一方でそれを避けたいと思っている。それを理解しなさい。


 

人と関わることを避ける人は成長できず、行き詰まってしまう。なぜなら、人と関わるという課題は必修科目だからだ。それは成長するための機会だ。それらを問題と捉えてはいけない。

それらは課せられた仕事なのだ。その宿題をすることだ。宿題をせずして成長はない。 生まれてから、何の問題にも遭遇したことのない人間のことを考えてみるといい。いかなる心配にも、苦しみにも、混乱にも出会ったことのない人間のことを。そういう人は決して成熟することはない。彼は幼稚なままだろう。彼を支えるものは何もない。ほんのちょっとしたことで倒れてしまうだろうし、物事に立ち向かうだけの体力を全く持たないだろう。

問題、軋轢、怒り、憎しみ、嫉妬、支配、その他ありとあらゆる事が人間関係を通して起こる。それをすばらしい機会として利用することだ。それは良いことなのだ!


 

いつの日か、誰も必要としない時がやってくるだろう。独りだけで充分に幸せで、全く何の問題もない時が。人間関係がもはや問題ではない時が。

だが今は、つまり若いうちは、そういったものに飛び込んでいきなさい。

精神的な成長を得るために、ありとあらゆる難題を経験しなさい。もしそうしなければ、どういう事が起こるだろう? 人々は肉体的には大人だが、精神的には幼稚なままだ。そういう人々があらゆるところにいる。顔は五十才だが、ほんの少し表面を引っ掻くだけで、十二歳の子供が顔をのぞかせる。彼らの内面は愚かな子供にすぎない。


 

だから、どうするかを決めるのはあなた次第だ。が、ともかく成長は困難を通してしか起こらない。私はいつも困難に賛成だ。回避してはならない! 困難な状況を見つけたなら、それを一つの挑戦と捉えなさい。すべてを忘れ、その困難に飛び込んでいきなさい。

気難し屋を愛するのは最もすばらしい経験のひとつだ。何の問題もない人間を探す必要はない。そういう人は何の役にも立たないし、何も得るところはない。最も気難しい人間を探しなさい。そして、 瞑想しなさい。

~OSHO~ This is it より抜粋