愛と関係性についての言葉

あなたには愛が必要だ。恋人が必要だ。そしてその中に入っていく勇気が必要だ。

あなたには愛が必要だ。恋人が必要だ。そしてその中に入っていく勇気が必要だ。

愛の中に入っていくのは難しい。そこには隠された怖れがある。愛は他の何者も匹敵できないほどの怖れを作り出す。なぜなら相手に近づき始めた瞬間、自分自身の外へ出ていくことになるからだ。それからどうなるか誰にわかる? 相手はあなたを受け入れるかもしれないし、拒絶するかもしれない。怖れがわき上がる。あなたはためらいを感じ始める。近づくべきか否か、相手にアプローチするべきか否か。

世界中で、かつて臆病な時代には、愛する代わりに結婚が決められてきた。なぜならもし人々が愛に開いたままでいたとしても、ほとんどの人が愛することができなかったからだ。ほとんどの人が愛することなく死んでいったに違いない。彼らは生きて、愛のない自らの人生を引きずっていただろう。なぜなら愛は危険だからだ。

誰かの方へ向かい始めその時、あなたはもうひとつの衝突に近づいている。あなたが口説いても、それが受け入れられるか拒絶されるか誰に分かる?相手があなたの要求と欲望にイエスと言うと、どうやって確信できる?

相手があなたに、彼は拒絶するかもしれない。嫌だと言うかもしれない。あなたは「愛している」と言うかもしれないが、彼もまたあなたに愛を感じるという保証はどこ」にある? そうならないかもしれない。そうである必要はない。拒絶される怖れは身も心も打ち砕く。

だから巧妙で賢い人々は、絶対に誰にも近づかないと決める。自分の殻に閉じこもれば、少なくとも拒絶されることばない。そして誰も私を拒絶したことばないという考えでエゴを増長させ続けられる。もっともそのエゴは全くの不能で、あなたを満足させるには不充分だが。

あなたは必要とされたがっている。受け入れてくれる誰かが必要だ。あなたを愛する誰かが必要だ。なぜなら誰か他の人があなたを愛する時初めて、あなたは自分自身を愛せるようになるからだ。それまでは無理だ。


 

誰かがあなたを受け入れれば、あなたは自分自身を受け入れられるだろう。それまではだめだ。誰か他の人があなたと一緒にいて幸せな時、あなたは自分自身と共にあって幸せだと感じ始めるだろう。それまではだめだ。

それぞれの関係性は鏡だ。それはあなたを映し出す。鏡なしで、どうやって自分自身を知るだろう。できはしない。相手の目が鏡のようになり、そしてあなたを愛する時、その鏡はあなたと非常に心が合う。あなたと一緒にいて、非常に幸せで喜びに満ちる。その喜びに満ちた目にあなたは映し出され、そして初めて確かな受容性がわき上がる。さもなければ、あなたは始めから拒絶されていたのだ。

自分自身のままでは受け入れられないと、子供の誰もが感じるようになるのは、社会の醜悪な構造の一部だ。もし良いことをすれば、もちろん何であれ両親が良いと考えることだが、もしそうすれば、彼は受け入れられる。もし何か悪いことをすれば、両親が悪いと考える何かだが、彼は拒絶される。その子供は、いつかこう感じ始める。「僕は僕自身では受け入れられない。僕のまま、本来の僕では。僕が何をするかで決まるんだ。僕の存在ではなく、僕の行動が愛されるんだ。そしてそのことが深い自己否定を生み出す。彼は自分を憎み始める。

もしあなたが恋に落なければ、もしあなたを受け入れてくれる恋人や友人が見つからなければ、自己否定と一生つき合うことになるだろう。愛は必須だ。あなたは愛を通り抜ける必要がある。

  ~OSHO~